斎藤剛史の教育ニュース観察日記

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zoom RSS 日々雑感・ゼロトレランス、無理でしょう?

<<   作成日時 : 2006/06/27 16:00   >>

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 中教審の教員免許制度の話が大きく報道されてましたが、答申案が了承されたということだけで中身に新しいものはない。ということで、今回は続いてゼロトレランスに関する個人的な感想などを。

 結論を言えば、これは日本の公立学校(私立ならできる、やっている学校もある)では、おそらくできない、、、と思う。

 ●定義をはっきりさせよう。
 日本人の議論がおうおうにして、個人攻撃の罵倒合戦になるのは、問題となる用語の定義をはっきりさせないまま、勝手なイメージのぶつけ合いをしているから。特に教育についてはその傾向が強い。
 で、ゼロトレランスの定義をはっきりさせよう。これは、あくまで私の個人的見解。実態は違うとかあまり突っ込まないでください。あくまで、日本で実施することを前提にしたものです。公立義務教育学校には退学はないので、それは除外しました。


 @どんな問題行動に対して、どんな処罰や指導をするのかを指導基準という形で明確にした上で、それを子どもと保護者に周知徹底させる指導。

 Aいかなる形、程度のものであれ処分、あるいは懲戒行為(居残り、叱責なども含む)は、指導基準のみを根拠とし、教員の恣意的判断を排除する指導。

 B小さな問題行動が大きい問題行動に発展することを防ぐため、いかなる小さな問題行動であろうと、指導基準に基づき処罰、懲戒を行う指導。

 C学校は子どもが勉強(創造性を育むなども含む)する場であり、しつけを教える場は家庭であるという前提に立つ学校・保護者の契約の下で、学校における生徒指導とは良好な学習環境を保つためのものであるという指導。。


 ●名称を変えて考えてみよう。
 ゼロトレランスというから話がややこしくなる。定義をはっきりさせて、言葉を変えて議論してみたらどうか、、、、、。

 早期対応型生徒指導=ちいさな問題も見逃さないという意味で。
 家庭重視型生徒指導=しつけや問題行動の本質的是正は家庭の役割であるということで。
 基準厳守型生徒指導=例外を許さず指導基準に即して対応するということで。


 ●問題は、教員の意識、、、それに保護者でしょうね。
 では、これらの定義、用語を整理した上で、実施できるか。公立は難しいでしょうね。
 私立学校ならできる。実際やっている学校もあります。でも、高校ならある程度なんとかなるが、公立小・中はどうか、、、、。

 まず、子どもは大丈夫でしょう。やればなんとかなる。
 逆に、指導基準を教員が厳守できるか。かわいそうだから、めんどうだから、子どもにきらわれたくないから、管理主義はきらいだから、、、、いろいろ理由で見逃す。結果、恣意的で公平さを欠く運用となる。

 でも、、、、一番のネックは保護者でしょう。小・中学校でも退学があり、しつけは家庭の役割というコンセンサス(あくまで社会的合意であり、必ず実施されているかどうかは問題ではない)がある社会ならともかく、、、、、問題行動があれば、しつけを怠った学校が悪いと逆にねじ込んでくるのが現代の保護者ですから。

 いや、おおげさな話ではなく、保護者やご近所、議員の無理無体なねじ込みは、いまの学校、日常茶飯事なのですよ。私、いらでも具体例を挙げることができます。


 ●子どもの基本的生活習慣、規範意識の育成などが家庭よりも学校に求められている社会では、本来の意味でのゼロトレランスは成立しない。
 
 というのが私の結論ですね。公立学校も自由選択性になって、学校と保護者の相互契約により成り立つというならば、可能性はありますけど。


 ●家庭との連携強化による毅然とした指導を探る。
 でも、毅然とした指導、公平でぶれのない指導は必要でしょう。

 それに、指導基準の明確化と周知というのもとかく情報公開や説明責任の意識が遅れている学校には必要だし、なにかと陰湿、ねちねちというイメージが強い日本の生徒指導観を転換させる契機になり得る。

 文科省がこんなことを言い出した背景には、現在の生徒指導がうまく機能していないと認識があるわけだし、それは学校関係者も社会も否定はできないでしょう。

 ゼロトレランスという言葉に振り回されるよりは、しつけは家庭の役割というのを押し出し(評論家然としたきれいごとですみません、、、、、)、現状を変えるためのちょっとした工夫を学校が積み重ねていく方がよほど生産的なのではないかと思います。




 ●蛇足、、、、、努力には少しは成果もないとね。
 生徒指導、保護者との対応でキレかかっている先生も少なくないでしょうけど、ある民間人校長とのやりとりをを紹介しておきます。
 
 校長「先生は本当に努力家、努力することが好き。夜の見回りも早朝の校門指導もいとわない。でも、それがどれだけの成果を上げたのか、誰も触れない。違うアプローチをしない。努力すること自体が目的化している」

 私「報われない努力をすることに慣れすぎてしまったからですよ。そうでないと、やってられないのでしょう」

 校長「だったら、行政なり家庭なり地域なりの協力をとりつけるのが管理職の仕事だな」


 一年後にこの校長さんに会ったら、全く教育プロパーの人と同じになってました。苦労したんだろうな、、、、、

 あれ、、、、ぜんぜん学校の現状改善を応援する例え話になってない、、、、、(汗。

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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
前回に引き続きコメントします。
結局,ゼロトレランスは,指導ではなく,評価の延長と考える方がわかりやすいと思っています。要するに生徒指導に関するルーブリックを作成するということですよね。ルーブリック評価する学校が米国では多くなっているように思いますが、同じような文脈で、ゼロトレランスも存在していると思うんです。
客観的な指標を常に求め、それが社会的意味を持つ社会にとって、ルーブリック評価はひとつの,革新的な知恵ですよね。まあまあ、なあなあでやってきた民族にゼロトレランスを定着させよとすると,ジェンダーみたいに、男女同室着替えみたいな事例が必ず出てきますよね。恐ろしい話です。
ともかく、数字や客観的評価が学校で導入され、それが根付いて,保護者も子どもも納得し始めたらゼロトレランスは有効に機能するでしょうが、今の状態では寝た子を起こすどころの騒ぎではなくなるでしょう。まあ、そういうものが根付くのがいいかどうかは、また別の議論ですが。

われながら、まとまらない話で恐縮です。
app
2006/07/04 13:54
appさん、再びコメントありがとうございます。とても参考になります。

ゼロトレランスは、客観的評価の徹底であるという捉え方は、目からウロコでした。

やはり、これを生かせるかどうかは社会のあり方が大きく関係しますね。日本じゃやはり無理なような気がします。いえ、やりたいところ、やれるところは、はやればよいだけですが。全体となるとねぇ、、、。
カラ
2006/07/06 02:36
分かりやすいまとめありがとうございました。某「いわゆる」教育困難校に勤務していた者として一言。"ゼロトレランス"的運営それ自体は、その学校に既にありました。例えば「教師に手出し=必ず退学」とか。そしてその方針は豊富な実例とともに(苦笑)生徒はちゃんと知っていたし、それが一定の効果を上げてもいました。(例えば新任の私にキレて殴りかかろうとしてきた生徒は、「退学になるよ!」と言われ周囲にとめられてました。)ただし、それが「『良い』学校を作る」わけではないです。その元勤務校は、私がいた約10年で大きく好転しましたが、それは制度のおかげではなく(そちらは私の勤務以前からずっとでしたから)その間様々な「教育的な、効果を上げる指導」があったから。あくまで「『悪い』環境に一定の歯止めをもたらす」効果、つまり極端に「ひどい」教育環境に対してゼロトレランスがあげる一定の効果は否定しませんが、「『良い』学校」にするためにはそこから教師全員ひいては生徒全員に大きな目標を持たせる…といった、「いわゆる旧来型の指導努力」が(そういった学校ですら)有効なわけで、新しい制度に過剰な期待は禁物だなあ、と思います。
一地方教師
2006/08/05 14:26

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